中国行の話

ここは、作者が中国に行ったときの記録のページです。
恥ずかしながら、いまだパック旅行から卒業できないペーペーの身でありますが。
中国迷の同志を求めています。

第1回 北京・西安行(1996.3.2〜3.7)
第2回 桂林・広州行(1998.5.1〜5.4)
第3回 蘇州・無錫・南京・上海行(1999.4.29〜5.3)
 第1回 北京・西安行(1996.3.2〜3.7)
はじめての中国行
 以下は、1996年に悪友Y氏(♂)とはじめての中国行に行ったときの記録です。北京と西安をまわりました。ただし、当時に書いた文章をなくしてしまったので、もっぱら頼りない記憶と、断片的遺物によって再構成しています。
 3月2日、この日は移動日。
 松山空港からANA784便で関西空港へ。関空は初めてである。4Fの国際線ロビーへ向かい、旅行会社のブースで、預けていたパスポートと搭乗券を受け取った。荷物検査、税関、出国審査を終えて、待合室へ。
 17:20発の中国国際航空のCA152便に搭乗して出発。途中、大連を経由する。大連で入国手続。
 北京空港に到着。ロビーを出るとすでに薄暗くなっていた。ガイドの可さん(♂)を捜しあて、バンに乗り込んだ。空港からホテルに向かう。新僑飯店にチェックインする。
 3月3日、万里の長城、定陵、飛行機トラブル
 朝、ホテルを出て、バンに乗り込み、万里の長城に向かった。
 北京市の郊外を通ったが、まだ開発途中という感じで、工事現場によく出くわした。北京にいる間、遠くの景色がぼうっと霞んだ感じがしていたが、黄砂の季節であったからだろう。北京にいる間に僕の鼻は黒くなってしまった。
 僕たちが行ったところは、北京の北に位置する八達嶺という地点である。可さんは、宇宙から見える人工の建造物を3つ挙げて「ピラミッド・オランダの干拓・万里の長城」と言っていた。
 渤海湾からゴヒ砂漠にいたる全長六千キロの長城からの眺めは、雄大で壮観である。煉瓦で固められた城壁が山嶺に沿ってうねうねと続いていく。歴史的に見て、ここから南が中華の天下であり、北が遊牧民族の闊歩する塞外の地なのであった。長城の上(甬道)を歩いてみると、意外と傾斜がきつく1、2キロ歩いただけで疲れた。こんな建造物の工事にたずさわった人夫の苦労はどれほどであったことか。いかに中国の歴代王朝が北方民族を脅威としてきたか、いかにこの工事を命じた明代の権力が巨大であったか、じつに偲ばれる。
 また長城の北側には、いくつかの狼煙台が築かれていた。
 長城のごくごく一部を見て、それでも景色を堪能して車に戻った。
 明の十三陵のひとつ定陵に向かう。十三陵は北京に都をおいた明代の十三人の皇帝の陵墓群である。そのうち永楽帝の長陵と万暦帝の定陵が発掘・公開されている。
 陵門をくぐり、地下宮殿の中へもぐっていく。地下はとても涼しい。アーチ型の石組の宮殿で、これまた築くためにはかなりの労力がかかりそうだ。日本では、こういう規模の陵墓を作った権力者はいないと思われる。内部に墓室があり、万暦帝の棺と皇后の棺が安置されている。ここで写真を撮った(本当は禁止らしいが)。
 友誼商店に寄った後、北京空港に向かった。さて、この日17:30(現地時間)の便で西安に向かう…予定であった。
 可さんに別れを告げて、空港税を払って、搭乗便にチェックインしようとしたところ、搭乗券に記載された便のカウンターがない。おかしいと思って搭乗券をよくよく確認すると、すでにとうに離陸した便の番号が記載されてあったどういうこっちゃ!
 混乱しつつ、筆談して電話を借り、旅行会社に連絡した。時間がかかったが、劉さん(♀)という人が迎えにきてくれて、もう一晩北京に泊まり、翌朝の飛行機便で西安にいけるよう手配してくれた。
 やはり新僑飯店に泊まった。あとで、責任者の人が謝りにきて、七宝焼をいただいてしまった。
 3月4日、西安へ。乾陵・懿徳太子の墓・西安城壁・大雁塔。
 この日は朝早くホテルを出て、北京空港へ。中国西北航空のWH2102便で北京から西安に向かった。
 西安の空港ではガイドの黄さん(♀)が迎えてくれた。西安はその昔、長安と呼ばれた千年の都である。前漢や唐などの王朝が都を置いた。秦代の都・咸陽も近い。
 さて、前日に移動できなかったため、行程は詰まっていた。
 まず車で西北のほうへ向かい、乾陵と懿徳太子の墓を見た。
 乾陵は、唐の三代・高宗皇帝(李治)と武則天(則天武后、武照)の夫妻の陵墓である。梁山のなだらかな山稜の参道に石碑や石像が並んでいる。石像はペルシャの影響を受けており、近代になって欧米列強が中国に進出すると、(よくよく考えれば筋違いだが)民衆の怒りを受けてその多くが破壊された。首のない石像がなお多く残っている。
 懿徳太子は中宗と韋后の間の長子で、武則天の怒りを買って自殺したという。その墓の墓室には壁画が残されており、唐代の宮廷習俗をしのばせる。
 西安の中心部に向かった。
 西安城市を取り囲む城壁を見た。西安には明代に築かれた周囲十二キロの城壁が残っている。すでに失われた唐代のものよりふたまわりも小さいが、その西の城門に上ると頑健なつくりで、よく保存されている。ここがシルクロードの出発点だったのだ。唐代の最盛期の長安城にはこれよりさらに大きい城壁があったことを思うとまた感心させられる。城壁のそばに「伊予スズキ販売株式会社」寄贈の馬の像が、あまり意味もなさそうに立っていたのに、思わず苦笑した。
 城市の中に入っていって、鐘楼を眺め、また城市を出て南に向かって大雁塔を見た。
 大雁塔は慈恩寺の中の塔で、玄奘(三蔵法師)がインドから持ち帰った教典を納めるために建立されたものである。現在のものは再建されたものだが、七層の塔がそびえている。そのときちょうど春節(旧正月)の最終日の元宵節の日に当たっていたので、寺の門前には出店が並び、爆竹も鳴らされていた。
 その夜、小雁塔の近く、西安賓館にチェックインした。
 3月5日、西安。華清池・兵馬俑博物館・陝西省歴史博物館・碑林
 この日も黄さん(♀)とともに西安を回った。
 まず東のほうに向かい、華清池と兵馬俑坑を見た。
 華清池は唐代の玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだと言われる浴池である。白楽天が「長恨歌」で詠んだ悲劇の物語を思い出す。肝心の浴池の中は汚くなっていて、ちと興ざめだった。また華清池は1936年の西安事件のとき、蒋介石が宿泊していたところでもあって、生々しい弾痕が残されている。これは行ったときに初めて知って驚いた。張学良や楊虎城がここで蒋介石を監禁して、周恩来らと国共合作を協議したわけだ。
 兵馬俑坑は秦の始皇帝陵のふもとにあって、陶製の兵士や馬の発見されたところである。その兵士たちの身長は二メートル近く、それぞれの顔貌が異なるだけでなく、写し取ったかのようなリアルさ、数も兵馬あわせて六千体にのぼるなど、日本の古墳時代の数世紀前のものとはとても思えない。ごく一部を見ただけだが、しごく感動した。
 ここで資料本を買い求めると、兵馬俑を最初に発見したという楊志発氏という農家のかたと握手してもらい、サインまでもらってしまった。
 西安の城壁近くに戻ってきて、陝西歴史博物館を見た。ここは今の天皇も訪中のとき来たことがあるらしい。青銅器、陶器、兵馬俑などが時代別に分類されて展示されている。中国の細やかな造形の美意識を堪能した。
 次に碑林博物館を見た。碑林は石碑を集めたところである。大部分のものの由来は分からなかったが、ひとつ「大秦景教流行中国碑」がここにあったのにはびっくりした。唐の時代、ヨーロッパで異端とされたキリスト教ネストリウス派が伝来して、景教と呼ばれて信者を集めたことを記した碑である。高校世界史の教科書にすら出ている有名なものだ。これの拓本が売っていたので食指が動いたが、高いのでやめた。
 この日の夕餐は、「餃子づくし」であった。蒸し餃子から水餃子から具もさまざまとりどりで満腹した。
 3月6日、西安から北京へ。天壇・故宮。
 この日の朝、空港へ向かい、8:00発の中国西北航空WH2101便に乗り込む。西安からふたたび北京に戻った。
 ガイドの陳さん(♂)が迎えてくれた。
 まず天壇公園に向かう。天壇は明・清の皇帝が五穀豊穣を祈った場所である。園丘という石造りの壇があり、また梁や釘を一本も使わないで作ったという祈年殿がある。皇穹宇という建物は、丸い円錐状の青い屋根をしていて、周囲にめぐらされたその壁は、回音壁といって音が反響して反対側に伝わるしかけだという。
 故宮博物院へ向かう。故宮のすぐ南、天安門広場に降り立った。
 天安門広場は市民の憩いの場であると同時に、現代中国を象徴するところである。北には故宮を臨み、天安門の壁には毛沢東の巨大な写真と両脇に「世界人民大団結万歳」「中華人民共和国万歳」の字が刻まれているところはあまりに有名だ。
 西に人民大会堂、東に中国歴史博物館、南に毛主席記念堂をひかえる。中国歴史博物館の前では、香港返還までのタイムリミットを刻んでいた。
 天安門広場は二次にわたる天安門事件の舞台である。ことに後のほうの1989年6月4日の事件のほうは、まことに生々しい。民主化を求める学生・市民たちを人民解放軍の武装した戦車が轢き殺していった。痛ましい事件の現場でもある。
 広場の中心には、人民英雄記念碑が佇立して、抗日戦や国共内戦を戦って犠牲になった中国の人々を記念している。
 天安門をくぐって故宮に入る。故宮は明・清代の宮城で、紫禁城といわれたところである。故宮は約1キロ四方の宮殿だが、とにかく広く感じる。午門・太和門をくぐって、太和殿を見るが、映画『ラストエンペラー』の1シーンが本当に蘇ってくる。溥儀が皇帝に即位して、文武百官が三跪九叩頭するあのシーンである。
 中和殿、保和殿、乾清宮、九龍壁などを見たが、大分飛ばして見たという感じがした。珍宝館では時計の展示をやっていた。故宮の文物の多くは、国民党が共産党に敗れたときに持ち出され、一部は南京や重慶に残っているが、かなり良質なものは台湾に持ち出され、台湾の故宮博物院にあるという。いつか見てみたいものだ。
 故宮を歩いて北に抜けて、景山公園に上って一息つく。故宮を裏側(北側)から眺めたことになる。故宮の東には王府井が、西には(政治中枢の)中南海が控えている。まだ見足りんなあと思いつつ去る。
 この日の夕餐は、北京ダックだった。あひるの肉の皮に近い脂肪の多いところをカイワレとともに皮に巻いてタレをつけて食べるのだが、これが絶品である。贅沢でなおかつこれほど旨い料理を僕は知らない。ああ、書いててヨダレが出てきた。
 この夜もまた、北京・新僑飯店に宿泊した。
 3月7日、帰国の日。北京→関空。
 とうとう帰国の日だ。またもう一度来たいものだと思う。西安でも霍去病の墓とか鴻門とか楊貴妃の墓とか、また近くの五丈原、函谷関、延安など訪れたいところは山とある。北京では、故宮はまた行きたいし、歴史博物館や円明園や頤和園や宋慶齢故居や盧構橋など行ってみたいところはまだまだある。う〜ん、なかなかままならぬものだ。
 宋さん(♂)という人に北京空港まで送ってもらった。
 中華国際航空のCA927に搭乗し、名残を惜しみつつ離陸する。途中で上海空港を経由。再び関西空港へ。
 この日のうちには松山に帰れなかったため、関空のホテルに泊まった。そして猛烈な怒りを覚えた。
 高いっ!高すぎるぞ〜!!食事は高いわ、缶ジュースにいたっては250円…。
 二度とこのようなところには泊まるまいと、固く決意したのだった。
 3月8日、松山へ帰還。
 ANA781便に搭乗。松山に戻った。

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第3回 蘇州・無錫・南京・上海行(1999.4.29〜5.3)

 第2回 桂林・広州行(1998.5.1〜5.4)
 わが悪友Y氏(♂)と二度目の中国行
 桂林(広西壮族自治区)と広州(広東省)の華南地方の2都市の風光と歴史文物を見てくるのが目的での中国行。期間が3泊4日(短い!)だったのは半社会人たる悲しさかな。帰ってきたらスグ仕事…ククッ。
 事前の情報ではかなり治安が悪化しているとのことでしたが、大きなトラブルもなく、ここに無事に帰還したことをまず報告いたします。

 5月1日、松山→大阪→広州→桂林
 この日は終日移動日。午前8時ごろ我が家より出発。Y氏の弟君の車に送られて松山空港へ。
 定刻9:30、JAL342便で関西空港へ。1時間に足らずして関空到着。近畿日本ツーリストの待合室で時間をつぶしたあと、空港付属施設のテナント屋台で昼食。折角の大阪だからとタコ焼き、もんじゃ、焼きそばのセットを食べる。なかなか美味。
 13:00ごろから行動開始。出国審査など受ける。定刻15:00すぎ、CZ390便(中華南方航空)で離陸した。中洋折衷の機内食あり。広州空港には17:40(中国現地時間、日本より1時間遅い、以下これに倣う)ごろに着陸。辺防検査(入国審査)を受ける。そのあと空港内で迷い、係員に呼び止められる。
 税関の外で広州のガイド祝さん(♀)が迎えてくれた。話によると、この日33°C。暑い。空港内で夕餐。相変わらず量が多く、食べきれない。中国では食べ残すことがむしろ礼儀にかなうとされるが、こんなムダをなくせば中国の食糧事情も少しはマシになるのではないかと以前来たときの感想を思い出す。(貧乏人根性か?)
 20:25登机(搭乗)予定の桂林行きCZ8934便に乗るためにチェック・イン。荷物検査を受けて待合室へ。ところが、多くの飛行機の登机時間が遅れはじめ、ついに僕らの飛行機の登机時間も23:00に延期される。天候が悪いらしいということだったが、広州は晴れているので実感なし。キャンセルされる便も出始めてやきもきする。
 とりあえず、近畿日本ツーリストの上海事務所に電話して、桂林で待機しているガイドさんに連絡してもらうようお願いする。電話一本でも結構大変だった。電話台の小姐さんはどうやら広東語(?)で話していたらしく、日本語とつたない北京語で交渉しようとした僕らとはいまいちコミュニケーションがうまくいかず、苦労した。
 連絡がついたあとは、Y氏と待合室で3時間そこそこのあいだぐったりしていた。荷物検査を受けた後なので、空港から出るわけにもいかなかったので…。飛行場でのトラブルは、中国では2回目(以前の北京→西安以来)。そのうちジンクスになるかもしれない。誰の日頃のおこないが悪いからかと悪態をつく。中国の国内線の時間があてにならないことは前から知っていたが、何時間も座りっぱなしでは本当に疲れた。周囲には、同じような目に合っている日本人観光客がかなりいた。
 どうにかそれ以上の延期がなく23:00前に登机。桂林空港に着くころには24:00を回っていた。空港前に桂林のガイド蔡さん(♂)が待機していて、こちらも相当長く待っていたらしい。
 午前1:00ごろ、車で桂林帝苑酒店に到着。チェック・イン。あいにくの雨で翌日の璃江下りに影響しないか心配。室内のユニットバスでシャワーを浴びて就寝。
 ちなみに、この日は国際労働節(メーデー)で中国では祝日。翌日以降の観光でも「慶祝五一」の看板などが目についた。

 5月2日、桂林
 朝起きると雨は止んでいた。6階の窓からは「伏波山」が見える。ホテルでバイキングの朝食。
 8:30ごろ、ホテルより出発する。
 璃江下りのため、竹江の船着き場へ車で向かった。レンガや土壁でできた家々、赤ペンキで書きなぐられた政治スローガン、野菜畑、蓮の浮かんだ池、行き交う農村の人々、もっこ、自転車、三輪車、小型特殊自動車など、中国らしい中国の姿を見る。ただ華北地方とちがって、土の色はかなり赤い。話によると、肥沃な土地であるのか、二毛作が行われているらしい。
 9:30ごろ、竹江に到着。二層構造の遊覧船に乗り込む。竹江から陽朔にいたるおよそ3時間半の船旅へ出る。
 前日の雨のためか、水量は多かったが、残念ながら水の色は濁っていた。しかし、韓愈が「山は碧玉のかんざしの如く、水は青羅の帯を作り」と詠んだという水墨・山水画の世界である。河水が蛇行し、奇岩奇峰が両岸に連なっていく姿は、まさに風光明媚で美しかった。覚えず素人写真を撮りまくっていた。
 昼食は船内で食べる。スッポンのスープは好吃!だった。
 中途、浅瀬で下船。鵜飼いを見る。
 13:00ごろ陽朔に到着。再び車に乗り、蘆笛岩へ向かう。

 蘆笛岩
 アジア最大の鍾乳洞、蘆笛岩に到着。見られるのは、全長2キロの洞の一部だけだが、なかなか壮観。
 きのこやこうもりに擬せられた石灰岩が垂れ下がる。
 ライトアップの妙で、まるで異星の大地のように見えた。

 桂林のガイド蔡さん(♂)について
 桂林を案内してくれた蔡さんは、日本語も流暢で、なかなか饒舌なお方だった。桂林のこと、中国のことをいろいろと語ってくださったことはたいへん有難かった。
 …ただ少々難をいえば、彼には商魂のたくましすぎるところがあって、正規の観光コースを案内し終わった後にもなにかやと誘ってくださるのには、多少ヘキエキした。
 「足裏マッサージの店に行ってみませんか」、「少数民族の踊りを見に行きませんか(民俗風情園)」(もち別料金である、結局これらには行ってみた)というのはともかくとして、「日本人の経営するクラブに行ってみませんか」「軍の射撃場に行ってみませんか」などというお誘いには参ってしまった。どちらも『地球の歩き方』で行ってはいけないとされている場所である。苦笑を隠しつつ、謝絶した。
 トドメに「女の子と遊ぶところ」というのもあったが、体よく無視。
 しかし、彼の言葉の中で「遊びにきた日本人が…」「日本人が遊びにいくところは…」とかいう部分があって、妙な感銘を覚えた。
 まあ、遊びに来たには違いないんですがね。中国語でいう旅游(観光)ですから。でも遊びの方向性が違うんだが…などとY氏とともに後でため息をついたのだった。

 5月3日、桂林→広州
 前日につづいて、朝食はホテルの洋風バイキング。前夜、桂花酒を買って部屋で呑んでいたので頭が痛かった。食事は粥のみですまし、飲み物を大量に飲んでごまかす。
 7:30ごろ、ホテルをチェック・アウトして空港へ向かう。桂林の中心街を通った。駅前近くはやはり60万都市の雰囲気がある。相変わらず交通のマナーは悪い。車も自転車も人も、車道と歩道の区別なく気ままにうごめいている。原則は「車は右」のはずなんだが…。車はクラクションを鳴らしまくっている。道は舗装されているが、信号はほとんどない。
 中心街から空港までは有料道路が走っている。これは結構綺麗。旅游重視の政策(外貨獲得のため)ゆえか、よく整備されている。
 1時間ほどで空港到着。空港税(50元)を払い、チェック・イン、荷物検査、待合室へ。地図などを買う。
 9:25、定刻登机。CZ3302便で広州へ。
 広州では再び祝さんが迎えてくれた。
 車で陳氏書院に向かった。

 大都市・広州
 広東省の省都である広州は、古くから商業と海運で栄えたところで、華南地方の都と言ってもいいところだ。中国第三の河、珠江の河口に開けたこの都市の人口は、現在700万。市民の平均月収が1500元程度(中国の平均的労働者の月収が500〜700元くらい。1元=16円でさあ計算してみよう)だそうである。ただ物価はそれ以上に高いらしい。まさに大都市である。
 僕の見たところでも、小綺麗で西洋的な高層建築の摩天楼の世界と、その裾野に広がる古くて茶色っぽい背の低い家々が奇妙に混在している。やけに高低差の大きい街である。同じ大都市でも、北京とはおもむきがかなり異なっている。
 もちろん、以前北京で見たものも再び見られた。空港のテレビは、PANASONIC(日本の松下)と三星(韓国系企業)だったし、街には、麦当楼(マクドナルド)やら現代やらの外資系の看板がごろごろしていた。今回、セブンイレブンを見つけたのは、さすがに驚いたけど。
 山水画の世界を抜け出してたどりついたのは、煩雑な現代的大都市で、そのギャップの大きさに興奮した。やはり中国ってとこは、巨大なアジア的混沌の世界だ。

 中山紀念堂にいけなかったのがくやしかったのだ!
 まず陳氏書院(陳家祠)へ。
 広州の古い権勢家の一族陳氏を祀った祠堂である。
 今では広東民間工芸館が設置されている。
 水墨とか文房四宝とか象牙の細工物とかもろもろの文物が展示されている。硯では、目(化石)が入っているものが珍しい。細工物はとにかく細密で、人の手になるものとは思えないほど。いちおう工芸品は売っているが、良いものは高い(当たり前か)。象牙のものは、買えるが日本には持ち込めないのだ(ワシントン条約)。結局眺めるだけ。
 次に、六榕寺へ。
 537A.D.創建と伝えられる古い寺である。名前は六本の榕樹(ガジュマル)からきたそうな。
 僕らはあまり仏教に造詣が深くないので、有難い仏像などはすっ飛ばし、塔の天辺に上って、街の写真を撮っていた。
 12:30分すぎに昼食。点心と飲茶。茉莉花茶(ジャスミン茶)を飲みながら、餃子、焼売、ビーフン、揚げパン、小鳥のスープなどの料理&お菓子を平らげた。
 歩いて清平自由市場へ向かう。
 市場は人でごった返していて、農産、海産のあらゆるものを陳列した出店がならんでいた。なにより目を引いたのが、食用の犬、猫、大きなネズミ、蛇、ゲンゴロウなど。広州の食材にはかなりのゲテモノがあるらしいとは聞いていたが、現物を見て感慨もひとしおであった。
 車で越秀公園に入った。
 まず、鎮海楼を見る。明朝時代に海防のために建てられた五層の楼閣である。楼閣の外には大砲や城墻などの遺物が見られ、楼閣の中は現在は広州博物館となっている。
 次に五羊石像を見る。伝説によると、周代に5人の仙人が稲穂をくわえた5匹の羊に乗って、天から下りてきたそうである。仙人は地元の人にこの稲穂を与えて豊作を祈り、五匹の羊は石となってそこに残ったのだそうだ。現在の石像は、その伝説に基づき解放後に建てられたもの。
 越秀公園を出て、民間玉器工場(翡翠工場)に向かう。
 わが友Yは、工芸品を買い込んでいたようだが、僕は小姐たちのセールスをいなして、ゆっくり観賞。相変わらず細密な手芸の世界だ。
 16:30すぎ、花園酒店にチェック・イン。しごくグレードの高いホテルで、部屋は20階である。なかなか壮観。
 今まで財布のひもを締めていた僕も、ようやく大きな土産物を物色しはじめる。
 それにしてもこの日残念だったのは、中山紀念堂を見れなかったことである。中山紀念堂は、孫文(号は中山)を記念して建てられた廟堂なのだが、折り悪く修復中とのことで、観覧できなかった。まったく遺憾千万ナベヤカンなことであった。うるうるうる…。孫文先生いつかお拝顔をば。

 広州のガイド祝さん(♀)について
 広州のガイド祝さんは、桂林のガイドの蔡氏と比べるとはるかにおおらかな人であった。自分の日本語はうまくないから教えてほしいと謙遜なさっていたが、蔡氏などと比べるととにかくよい人なのであった。
 わが友Yなどは、祝さんに土産物の値引きの交渉をしてもらって喜んでいた。
 祝さんについては、彼女の珍語録を添えて終わりとしよう。
1. (日本にバナナの木がないと聞いて驚き)「ええっ、日本にはバナナの木がないんですか?」「蜜柑が育つならバナナも育ちます」(と断言してくださった)
2. (なぜかラブホテルについて聞きたがり)「日本では、結婚前の男の人と女の人がホテルに入っていいんですか?」「警察は何も言わないんですか?」「中国では犯罪です」(……(^^;))

 5月4日、広州→大阪→松山
 朝はまたしても洋風バイキング。
 7:30ごろ、ホテルをチェック・アウトして広州空港に向かう。
 空港で、空港税(90元)を払い、チェック・イン。祝さんに別れを告げた。やはりその挨拶は「再見!」である。荷物検査、出国審査などを受けて、待合室へ。
 8:45ごろ、CZ389便に登机。機内食あり。
 13:45(再び日本時間)ごろ、関西空港に到着。
 待合室で長々と時間をつぶした後、JAL347便に搭乗。17:25発。18:15、松山空港に到着。タクシーでY氏を送って、自分も帰宅す。

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第1回 北京・西安行(1996.3.2〜3.7)

 第3回 蘇州・無錫・南京・上海行(1999.4.29〜5.3)
 江南の地をめぐる旅
 蘇州、無錫、南京、上海と江南の4都市をめぐる今回の旅も無事に終わりました。ここに報告いたします。
 僕は当初、予定のコースから、「墓めぐりツアー」とひそかに呼んでおりましたが、それにとどまらぬ収穫をえました。いくつか不本意な点もありましたが、天候にも恵まれて楽しい旅行となりました。

 4月28日、松山を発つ
 19時過ぎに家を出発して、バスと電車を乗り継ぎ、松山観光港へ。同行Y氏(♂)と合流して関西汽船のフェリー「さんふらわあ」に乗り込む。船内泊である。あまり眠れず。
 4月29日、南港→関空→上海→蘇州
 朝5時40分ごろ、大阪南港かもめ埠頭に到着、下船。ひたすら眠い。
 関空までの接続がややこしい。埠頭からフェリーターミナルまで無料バス。そこからニュートラムでポートタウン東駅へ。そこからようやく関空まで直通のバス。
 関空3Fで軽食をとり、4Fへ。多少探した後、同行T氏(♂)と合流。彼は海外旅行が今回初めて。関空4F集合としか伝えていなかったので、ちと失敗であった。ゴールデンウィークのため、やはり人混みはなかなかのものである。
 搭乗券を引き替え、出国審査を受けて、JL793便に乗り込む。定刻より20分ほど遅れて11:30ごろ離陸。機内食あり。
 上海虹橋空港に12:50(中国現地時間、以下これに倣う)ごろ到着。辺防検査(入国審査)を受ける。空港ロビーには蘇州のガイド臧さん(♀)が待機していた。また今回、神戸に在住という二人のご老人(♂♂)と合流。今回5人での旅行となる。臧さんの誘導にしたがってバンに乗り込み、出発。蘇州へは約1時間半の道のり。
 上海近郊の農村では、延々と平らな沖積平野に、米や麦が作られていて、水田も多い。家屋の様子は日本のものと異なるが、ここの農村の風景の一部を切り取って、日本の農村に貼りつけてもさほど違和感はない。ため池が多く、ビニルハウスなども散見される。
 蘇州市内に入り、まず拙政園に向かう。ここは中国の四大名園のひとつであり、世界遺産にも指定されている。明代に官職を辞した王献臣という人物が作った庭園で『紅楼夢』のモデルであるらしい。いや、実にここは面白い庭園である。亭に、回廊に、屋根に、窓枠にと、さまざまな工夫がなされていて、千変万化である。ここの亭で酒を飲みながら景色を観賞するのは実にオツなことだろう。雪が降ってるときなどもよいか。…寒そうだけど。
 シルク工場に立ち寄る。絹は蘇州の名産である。茹であげられたカイコの繭から糸を紡ぎ、機を織っていく様子が見物できた。
 ホテル「雅都大酒店」にチェックイン。ひと休みした後、再び車に乗り、呉楽宮へ。蘇州の伝統歌舞を見ながら、夕食。味つけの辛い料理がまたたくさん出た。中でもタニシの料理が印象に残る。よく火が通っていて、ミンチ肉のような食感。
 堪能した後、ホテルへもどって休む。ホテルの商場の本のコーナーで、まぼろしの『南遊記』『北遊記』(日本語版)やら『三国演義』『水滸伝』『七侠五義』『岳飛』などの絵入りの本のセットやらを見つけて思わず買ってしまう。ゲッ、しょっぱなから荷物を重くしてしまった。
 この夜もまたあまり眠れず。

 4月30日、蘇州→無錫→南京
 7:00にモーニングコール。ホテルで洋風バイキングの朝食を取った。8:30ごろ出発。虎丘へ向かう。
 虎丘は、春秋の五覇のひとり呉王・闔閭の墓といわれている。闔閭は越王・勾践の矢を受けてたおれ、ここに埋葬された。その名は、白虎が現れて墓を守ったという伝説にちなむ。山門をくぐり、石段を登っていくと、枕頭石や仙桃石、試剣石などが左右に見られる。さらに登っていくと千人石と呼ばれる平べったく大きい石が横たわっている。本当に千人が座れるかどうかは知らないが確かに大きい石だ。しばらく行くと、虎丘の塔が見えはじめる。虎丘の塔(霊巌寺塔)は、中国のピサの斜塔とも呼ばれる。高さ47.5mの塔が約15度傾いて佇立していた。しかし、この塔のおかげで、闔閭の墓室があるのかどうか調査できないようだ。闔閭の名剣三千本(本当にあるのなら)、拝んでみたいものだ。
 虎丘から寒山寺にいたる遊覧船に乗り込んだ。市内は運河水路が縦横無尽に走っている。蘇州が水郷であることを実感する。水路の両岸すぐに民家が立ち並んでいて、堤防のようなものはない。レンガを積み、しっくいやセメントで固めた家々である。その上にペンキを塗って白壁としているところも多い。
 寒山寺に到着。南北朝時代の創建。唐代に寒山と拾得(絵を見ると結構ユーモラスだ)という坊さんが住持したのでその名がついたらしい。有名な張継の「風楓夜泊」の詩を思う。「月落ち烏啼いて霜天に満つ/江風漁火愁眠に対す/姑蘇城外寒山寺/夜半の鐘声客船に至る」高校のころ習った漢詩はうろ覚えだが、しばし感慨にひたる。十八羅漢の像がならぶ大雄宝殿や、煩悩を払う鐘楼、碑版刻石が並ぶ碑廊などを見る。また、弘法堂という比較的新しい御堂があり、玄奘、鑑真、空海の塑像が安置され、まつられている。これも日中友好の成果か。
 時間があるということで、刺繍工場を見学。すべて手作業で行っているという作品は、とても細密な出来。完成に平均1ヶ月半かかるそうである。
 昼食を取ったあと、臧さんと別れ、車で無錫へ向かう。約1時間。無錫のガイド陳さん(♂)と合流。
 ゲン頭渚公園は、太湖に突き出た半島の公園である。その地形が亀と竜の合体したような空想上の動物「ゲン」(字がでない)の頭に似ているため、そういう名前がついたらしい。近代文学者・郭沫若がたたえた絶景である。中国第4の湖(琵琶湖の3倍)・太湖を眺めわたす。同行T氏は「宮島(の風景)に似ている」とさかんに繰り返していた。
 蠡園へ向かう。ここは、春秋時代の越の謀臣・范蠡ゆかりの庭園である。「苦しみを共にできても、楽しみを共にできない人だ」と言って、覇者となった越王・勾践と袂を分かった范蠡が、絶世の美女・西施とともに晩年を過ごしたといわれるところだ。園内の池の中心部には、西施の彫像が佇立している。その周囲には、太湖から引き揚げた太湖石という珍石を巧妙に配置して、まるで迷路のようである。また、范蠡と西施が舟遊びをしたといわれる湖をのぞむほとりには、千歩長廊と呼ばれる回廊が延びている。
 汽車の時間までまだあるということで、恵山泥人形工場を見学。粘土を造形し、焼かずに自然乾燥させたものである。色つきとそうでないものとがある。これも完全手作業。職人の技を感じる。美男・美女や動物、歴史人物などもあるが、釣り竿をもったユーモラスな老人が気に入る。
 無錫駅に着き、しばらく待機ののち、南京行き快速列車に乗り込む。軟座(指定席)である。安い硬座(自由席)はきわめつけに混んでいて、熾烈な座席争いが展開されている。約2時間半を列車で過ごす。
 T氏とY氏は、南京の大学で国際関係論を教えているという教授に話しかけられていた。南京の話とか、『紅楼夢』や『封神演義』の話とか、面白そうな話をしていた。新ガイドラインをどう思うかとか、ホットな時事ネタも質問されたらしい。僕は席が離れていて話に加われなかった。ちと残念。
 列車の外はもう暗くなっていて、停まった駅の表示は見えないし、車内放送は聞き取れないし、いったいどこを走っているのやらという感じだった。下手すりゃ終点まで行ってたかもしれない。陳さんはきちんと説明してくれてなかったからなあ。でも、どうにか南京駅に下りる。
 南京駅では、南京のガイド朱さん(♂)が待機してくれていた。朱さんは日本で2年間ほど働いたことがあるそうである。大阪の住之江にいたそうで、関西弁も分かりますとおっしゃる。そりゃありがたい。伊予弁は関西に近いのである。
 駅からマイクロバスで出発するが、人混みがすごくてなかなか動けない。翌日が祝日(メーデー)なので人が多いそうである。去年、桂林・広州に行ったときも、そんな時期だった。でもあまり人の混雑は気にしなかったように思う。
 夕食の南京料理は美味というか口に合う。さほど辛くない。
 「南京古南都飯店」にチェックイン。ここは、日本の名鉄との共同出資で建てられたホテルだそうである。眠気がたまっていたので爆睡する。

 5月1日、南京はメインのはずだったが…
 やはり、7:00にモーニングコール。洋風バイキングの朝食。8:30ごろ出発。南京市の北東へ向かう。
 車の中から軍区病院や明故宮などを通り過ぎるのが見えた。中山門を抜け、城壁の外へ出る。やがて、車は紫金山を登っていく。山の道沿いにはプラタナスの並木が植えられていた。
 中山陵に到着。ここは、中国革命の父孫文の遺体が安置されている墓陵である。この日は朝から人出が多かった。祝日なので観光客が多いのは仕方がないが…。「博愛」の額の入った門とか「天下為公」と刻まれた堂などを抜け、石段を上がっていく。石段は392段だそうだ。頂に達すると、民族・民生・民権の三民主義が刻まれた3つの門をもつ祭堂にいたった。この中に孫文の遺体が安置された棺があるということだが、人の行列が長い。並ぶと1時間半はかかるとのこと。よって断念…無念(T_T)。しかし、思えばこれがこの日のケチのつきはじめだったろうか。
 ひと休みした後、明孝陵へ。ここは明の初代皇帝朱元璋(洪武帝)の墓陵である。神道、陵園、地下宮殿の3部に分かれているそうだ。神道には、象や麒麟などの石獣が左右に並んでいる。この800mの長さの道を歩いて引き返す。アレレ…。
 もうひとつ予定表に入っていた孫権の墓は、孝陵の至近にある。三国時代の呉の孫権の墓である。朱元璋の墓が造営されるとき改葬されそうになったが、朱元璋が「孫権に自分の墓守をさせたい」とかいう遺言を残したため、残されたそうである。この墓は結局行かず…。朱さんに「あっちです」と指さされただけだった。
 オイオイ…(コナンのように内心つぶやく)、いくら人出が多くて道が進まないからって、そのハショりかたはないだろう。一言相談してくれよ…。ガイドに対する憤懣がたまる。朱さんは面白い人ではあったが、客側の意向を尋ねることはしないし、歴史の知識はミョーだし(朱元璋の墓のとこで「永楽帝の時代が4年くらいで短い」とか言うし、後の南京博物院では「乾隆帝は清の3代目」とか言い出すし)、ガイドとしてはちと問題ある人だった。
 紫金山の墓めぐりを終え、ふたたび城壁内に入り、南京博物院にいたる。博物院の前に人々が集まって、さまざまな文物や観光みやげ品のフリーマーケット状態。大部分贋物だとか。さて、博物院の中身だが…はっきり言って不満だった。時代別の分別はしていないし、故宮南遷文物がどれなのやらよく分からないし、文物の質としても今イチというものが多いし、…そういや呉王・夫差の愛剣はどこ行った?見た覚えがない。とにかく一級の品はどこかへ隠している(持ち出している?)ってな感じだった。
 博物院を出て市内の北西に向かい、長江大橋にいたる前に、遅い昼食をとる。
 さて、長江大橋は、長江に掛けられた全長6700mの橋である。南京市とその対岸を結んでいる。旧ソ連の技術者の指導で建設を始めたが、おりしも中ソ対立のためソ連の技術者は引き揚げてしまった。その後、中国独自の力で建設を進めたそうである。ソ連が作ったという橋の基礎が残されているが、これがまた現在の橋梁に比べて貧相なものである。苦笑を禁じ得ず。
 長江大橋の南京市側の橋脚の下には巨大な毛沢東像があり、橋脚内のエレベーターを登って、屋上に出ると長江と橋と南京市内とを俯瞰することができる。長江の水は決してきれいではない。上流からさまざまなものを押しはこびながら悠々滾々と流れている。一転市内の方を眺めると、紫金山や街路、雑多な建築物が見える。神戸のご老人が東方の山(幕府山か?)の長江ぞいの斜面に木がなくなってえぐれているのを指さして、あれは何をしているのかと問う。セメントのための砂利を取っていることを朱さんから聞き出すと、ひと言「あの山は5年後来たらなくなっとる」。そのやり取りが妙におかしかった。
 市内南方へ向かう。南京城の正門中華門にいたる。明代に作られた門は4重のつくりになっていて、三千人の兵を潜ませられるという蔵兵洞がある。門墻の上から眺めると北に中華路と左右の街並みが、南に雨花台が望める。城壁はとぎれとぎれに修復されているようだ。現在の中国の都市で城壁が残されているのは珍しい。昔は都市は城市とも言って、都市と城塞とは一体のものだった。近代になって城壁は不要となり、都市から消えていった。城壁が残されているのは、西安・南京などの少数の都市のみである。
 中華門を離れ、夫子廟へ向かう。夫子廟とは、孔子の廟のことである。南京の夫子廟の周辺は、宋代の町並みが復元されて保存されている。あかあかとした漆塗りの柱や梁とくろぐろとした瓦屋根とのコントラストのはっきりした建築が、軒をならべている。廟門の中には、孔子と孔子の弟子たちの像、絵、事績の記録があったり、また文天祥の筆による明徳堂の額があったりした。
 あたりが薄暗くなって、「南京古南都飯店」にもどった。夕食はホテルで和食である。やはり日本のものより劣るが、まあ悪くはない。T氏は刺身の切り方が悪いとかなんとかブツブツ言っていた。
 神戸のお二人より、結構いいウイスキーを頂いてしまい、部屋で3人で呑む。ごちそうさま。

 5月2日、南京→上海
 この日はやや早起き、6:30にモーニングコール。朝食。7:50ごろ出発。南京駅へ向かう。 
 南京駅で特快の列車に乗り込む。座席はやはり軟座。8:50ごろ発車。11:40ごろ上海駅に到着。予定より早かったようだ。
 駅では、上海のガイド董さん(♂)が迎えてくれる。誘導に従って駅舎を出てしばらく歩く。昼食の後、豫園へ。
 豫園は、明代に潘允端という人がその父親のために作ったという庭園で、華東の名園といわれる。武康石を積み上げて作られた巨大な築山(大假山)。竜の鱗に擬せられている壁の瓦など。
 豫園の周囲には、かつて老城隍廟商場とよばれた一大商店街(豫園商場)が取り巻いている。豫園を見た後は、この豫園商場を見るはずであったが、中には入らず、代わりに漢方薬店に連れて行かれる。中国気功のビデオを見せられ、気功の先生に無料で体を見てもらうってなことをやっていた。これはまた別の意味で面白かった。
 さて、問題の上海博物館に向かう。この博物館は掛け値なしにスゴかった。青銅器、彫刻、陶磁器、書、絵画、印璽、貨幣、玉器、家具、少数民族工芸、それぞれの陳列室が独立した博物館ともいえるほどのボリュームがあり、展示品の質もよかった。高校世界史の教科書に出てきそうな刀銭、布銭、交鈔…、王羲之や蘇軾の書…、どれもすばらしかった。ただきわめつけに口惜しいことに、時間がなかった。たった2時間…。これっぽちの時間でどれだけ見れるっちゅうねん。展示品がすばらしいだけに、かえって欲求不満たまったぞ。くっそー、もう一度来てやる。そんときゃ3日は動かんからな…(興奮)。ここの付属店舗でまた本を漁る。
 黄浦江岸の外灘に向かう。そのころはすでに上海の街も薄暗くなりはじめていた。外灘は、解放前にイギリス租界のあったところで、旧上海税関やサソンビルなど7、80年前の洋風石造建築と現代高層建築が共存して建ち並ぶエキゾチックな街路である。バンドとも呼ばれる。黄浦江の対岸にはテレビ塔が見える。上海市人民英雄碑の前を通り、ガーデンブリッジを眺めた。
 夕食はお楽しみの小籠包子(シャオロンポー)だっだ。やっぱり旨かった。
 ホテル「上海賓館」にチェックイン。あと一日である。

 5月3日、上海より帰国の途へ
 出発まで自由行動ということで、僕とY氏とT氏の3人で前日よりいろいろ相談していた。僕は一大会趾や魯迅紀念館が見たいと主張していたが、諸般の事情で断念。
 結果、歴史ある繁華街・南京路を3人で歩いてみることに決定した。僕とT氏は、森川久美の『南京路に花吹雪』のファンなので、1930年代ごろの南京路はアカシア並木があったのだなとか、その頃の街はどうだったろうとかなどと思いながら、近代化された街並みを歩いた。
 取りあえず南京西路と南京東路の境目にあたる人民公園を目標にして歩いたのだが、地図で見るとさほどでもなさそうなのがやけに遠い。南京西路を東へ東へ、静安寺やテレビ局の前などを通った。途中で「洋服の青山」の店があったのには、苦笑す。
 やっとこせ人民公園に着いてひと休み。観光地ではない普通の公園である。胡弓に似た楽器を弾く老人たちや中国将棋(象棋)に興じる人々がいてなかなか面白かった。
 ホテルへの帰路には、新華書店の静安支店に入り、またまた本を漁る。荷物が重くなることに対して、すでに開き直っていた。
 12時半、董さんがホテルに迎えにきてくれる。上海虹橋空港に向かう。
 空港ロビーで董さんに別れを告げる。空港税90元を払い、荷物検査。JALカウンターでチェックインの後、出国審査。やけに時間を食う。
 JL794便に乗り込む。定刻14:50発。さらば上海、また来るぞ。チクショー、もう1日いたかった〜、上海博物館。
 関空着17:55。入国審査、税関を抜けて、1Fロビーでひと休み。後は帰るだけだ、荷物が重い。19:10発のバスに乗り込み、ポートタウン東へ。ニュートラムで大阪南港フェリーターミナルへ。ここでT氏と別れる。
 関西汽船「さんふらわあ」に乗り、またも船内泊。

 5月4日、帰宅
 朝、起きると雨が降っている。中国で降らなくてよかった。6:30前、松山観光港に着く。しんどいのでタクシーに乗り込む。Y氏を送り、自分も帰宅す。

 旅は道連れ〜神戸のご老人たちについて
 「旅は道連れ」とはよく言ったものです。神戸のご老人お二方は、僕たち3人とは別口で今回のパック旅行に申し込んだ方々だったのですが、ご一緒してたいへん面白く、また有益な示唆をいくつも下さったのでした。この場を借りて深謝! 
 お一人はお医者、もうお一人は工場の社長さんとのことでしたが、神戸の震災のときにはたいへんご苦労なさったようです。
 しかし、僕らよりよほどお金持ち(失礼)でおられるので、旅行の経験もたくさんお持ちで、東南アジア、台湾、ヨーロッパ、アメリカの旅行の話はたいへん愉快でした。南京博物院での骨董品(文物)のウンチクはたいへん参考になりました。

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第1回 北京・西安行(1996.3.2〜3.7)
第2回 桂林・広州行(1998.5.1〜5.4)
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