[ティムール帝国]
ティムール(?〜1405)
帖木児。西方ではタメルランとも称される。在位1369〜1405。ケシュの人。トゥルガイの子。チンギス・ハーンの子孫を自称したが、トルコ系ベルラス部族の出身とみられる。はじめ西チャガタイ汗国のハジ・ベルラスに従ったが、西チャガタイが混乱すると決起して、東チャガタイのトグルク・ティムールと戦い、敵将からケシュの統治を任された。サマルカンドの宰相にまで上った。一度サマルカンドを放逐され、砂漠を流亡する憂き目にあったが、ふたたびサマルカンドを奪回。西トルキスタンを統一して、マワラ・ウン・ナフル侯に上り、旧チャガタイ汗国の領域を版図とした。1393年から96年にかけて西征してイル汗国・キプチャク汗国の領域を併合した。1398年から翌年にかけてはインドに侵入して、インダス河畔に達した。1402年には小アジアに遠征して、オスマン・トルコのバヤジット1世をアンゴラの戦いで捕らえた。一代の征服で中央アジア・西アジアに大帝国を築いた。征明を企図して軍を進発させ、その途上オトラルで病没した。
[コーカンド政権]
ヤクブ・ベク(1820〜1877)
阿古柏伯克。タジク族の出身。コーカンド汗国ピシュケントで生まれた。若くして楽士として放浪した。タシュケントの長官ナル・マホメド・ハーンに見いだされ、軍に入った。アク・メチェトに鎮し、1852年にはロシアのペロフスキーの軍をひとたび撃退した。翌年、再度の侵攻を防げず、タシュケントに逃れた。1864年、コーカンド汗国の衰亡に見切りをつけて、新疆に入った。ウイグル人の叛乱に乗じてカシュガル地方を占領し、同治五年(1866)には東トルキスタンにイスラム国家を建設した。アクスを首都とした。露と貿易協定を結び、また英と条約を結んで修好した。光緒三年(1877)、左宗棠率いる清軍に敗れて自殺した。
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