[中華人民共和国(1949〜)]
⇒中華人民共和国(建国期,文革期,改革・開放期
※文革期
劉少奇(1898〜1969)
  湖南省寧郷の人。湖南で毛沢東の社会主義青年団の組織化に協力。モスクワの東方大学に留学中に、共産党入党。帰国後、中華全国総工会中執委委員となり、労働運動を指導した。1932年江西根拠地に入る。1934年以降、華北の国民党支配地域で、党組織の再建に尽力。抗日戦では華北・東北での遊撃戦を指導した。1941年新四軍政治委員。1945年党中央委副主席。1949年国家副主席。1955年全人代第一副主席。1959年国家主席となる。大躍進の失敗が明らかになると、穏健な経済調整政策を進めた。文革がはじまると、「資本主義の道を歩む党内実権派」の筆頭として指弾され、逮捕、党籍剥奪、迫害の末に開封の獄中で死んだ。1980年に名誉回復された。
江青(1914〜1991)
  本名は李雲鶴、または李進、李青雲、芸名は藍蘋。山東省諸城の人。1929年に山東実験劇院に入学。1930年代初めに黄敬と結婚。1934年に上海に移って女優となり、脚本家の唐納と結婚し、まもなく離婚。1937年に延安に入り、毛沢東の四番目の妻になった。毛沢東との間に娘をひとりもうける。1965年に呉ヨの『海瑞の免官』を批判して文革の口火を切った。1969年政治局員となり、文革中の政局を牛耳るが、毛沢東の死後、四人組の指導者として逮捕された。法廷では文革の正統性を昂然と主張したが、死刑判決を受ける。1983年無期懲役に減刑されたが、1991年自殺。
呉ヨ(1909〜1969)
  浙江省義鳥の人。家庭教師をしながら清華大学を卒業。歴史学者として清華大学教授となる。中国民主同盟の創立者。政治協商会議に参加して、共産党との統一戦線を張った。解放後、清華大学人文科学部長、北京副市長となる。文革がはじまると、彼の劇『海瑞の免官』が毛沢東を批判して彭徳懐を称揚する比喩であると攻撃された。迫害を受けた末、自殺。1979年に名誉回復された。
林彪(1907〜1971)
  もとの名は林育蓉。湖北省黄岡の人。1925年共産党入党。五・三〇事件参加後、黄埔軍官学校に入り、北伐に参加。1927年南昌蜂起に参加し、井崗山で毛沢東に合流。紅軍第四軍軍長・紅軍第一軍団軍団長・紅軍大学校長などをつとめた。長征に参加。抗日戦では八路軍一一五師を率い、山西で遊撃戦を指揮。1946年東北連軍総司令。東北野戦軍司令員・第四野戦軍司令員として内戦を指揮した。建国後、中南軍区司令員・党中央軍事委副主席。朝鮮戦争にも参加。1954年国務院副総理・国防部長となる。人民解放軍の元帥のひとり。毛沢東に忠実で多くの軍幹部を攻撃し、失脚に追い込んだ。文革でも江青らを支持して「実権派」を弾圧した。1969年に毛沢東の後継者として認定されたが、1971年、毛沢東暗殺を企てて失敗し、ソ連へ向けて飛行機で逃亡中に外モンゴルで墜落死した。
謝富治(1899〜1972)
  湖北省紅安の人。1931年共産党入党。鄂予皖ソヴィエトで遊撃隊に加入。1938年副旅団長。1955年雲南省党地方委第一書記を経て、1959年国務院公安部長となる。文革のあいだ、政治局員・国務院副総理となる。死後、党籍を剥奪された。
康生(1898〜1975)
  本名は趙栄。山東省膠県の人。1925年、上海大学在学中に共産党入党。1931年党中央組織部長。1933年ソ連に行き、コミンテルン中国代表団副団長。1937年に帰国して延安へ。1942年から党内の整風運動を指揮し、多数の幹部粛清に関与した。1950年に精神分裂症と診断されて入院、一線から退く。大躍進運動中に政治活動を再開し、1966年には中央文革小組顧問・政治局員となる。文革中、党高級幹部の大量追放を画策した。死後、党籍剥奪の処分を受けた。
張春橋(1917〜2005)
  もとの名は善宝。山東省巨野の人。張開益の子。済南の正誼中学で抗日学生運動に参加。1935年上海に出て、文芸家協会で活動。狄克の筆名で魯迅批判の論文を発表した。1938年延安に入り、共産党入党。晋冀察辺区で後方活動にあたった。1951年に上海市党委機関誌『解放日報』の編集長。1965年に呉ヨの『海瑞の免官』を批判して文革の口火を切った。上海市党委書記・中央文革小組副組長・政治局員・政治局常務委員・人民解放軍総政治部主任を経て、1975年国務院副総理となる。毛沢東の死後、四人組の一員として逮捕され、死刑判決を受けるが、終身刑に減刑された。2005年、胃ガンのため死去した。
劉暁(1911〜1988)
  湖南省深渓の人。1926年共産党入党。上海蜂起に参加。仏租界で逮捕され、三年間投獄。1932年党中央委員会委書記。長征に参加し、第一方面軍政治部主任。抗日戦争・国共内戦を通じて、軍の総政治部に従事した。1955年駐ソ大使。文革の指導者。1967年駐アルバニア大使。
陳伯達(1904〜1989)
  福建省恵安の人。若年のころ、軍閥・張貞の秘書をつとめた。1925年共産党入党。モスクワの東方大学で学んだ。1930年北京の中国大学で教員。日本が北京を占領すると延安に行き、党学校で教えた。陸定一の下で宣伝部に属し、1949年副部長。1955年農村工作部副部長。1958年、理論機関誌『紅旗』総編集長、党中央政治局常務委員。文革がはじまると、中央文革小組長として権勢をふるった。1970年林彪の国家主席就任を工作して失脚。1973年党籍剥奪。1981年の四人組裁判で懲役十八年の判決を受けた。『中国四大家族』、『毛沢東と中国革命』ほか著作、論文多数。
王洪文(1935〜1992)
  吉林省長春の人。王国勝の子。1951年、中国人民志願軍に応募し、朝鮮戦争に従軍した。翌年、江蘇省無錫にうつった。1956年、上海第十七綿紡績工場の保安要員。1966年、文革が開始されると、上海工人革命造反総司令部の司令を称した。翌年、上海市革命委副主任。1969年、党中央委員に選出された。1973年に党中央委副主席・党政治局常務委員となる。文革後、四人組の一員として逮捕され、終身刑を受けた。服役中に病没した。
王光美(1921〜2006)
  天津の人。王治昌の娘。北京に生まれた。北平輔仁大学を卒業し、1946年に共産党の英語通訳として延安に。物理学教師。二年後、劉少奇と結婚した。1957年、全国婦人連執行委員。文革中に投獄されるが、1978年に釈放され、翌年名誉回復。中国社会科学院副秘書室長として復活した。政治協商会議委員、同常務委員。2006年、北京で肺炎にため死去した。
王首道(1906〜1996)
  湖南省劉陽の人。1922年共産主義青年同盟に参加、翌年共産党に入党。1927年秋収蜂起に参加。長征ののち山西・湖南・江西を転戦した。1949年、湖南省政府主席。のち、国務院交通部長、党中南局書記、人民解放軍総政治部副主任を歴任。文革の指導的な中央委員のひとり。文革後も政治協商会議副主席などを歴任した。
毛遠新(1941〜)
  湖南省湘潭の人。毛沢民の子。毛沢東の甥にあたる。1950年に母が再婚すると、毛沢東のもとに預けられて、中南海で育つ。ハルビン軍事工程学院を卒業し、1973年に遼寧省党地方委第一書記となり、次いで瀋陽軍区の政治委員となる。1975年、毛沢東と党中央政治局の連絡役を務めるが、毛沢東の死後に四人組事件で逮捕され、懲役十七年の判決を受けた。
姚文元(1932〜2005)
  浙江省諸曁の人。姚蓬子の子。1948年共産党入党。党上海盧湾区委宣伝部で工作にあたった。1955年、胡風批判の文章が張春橋の目に触れ、引き立てられた。1958年に上海市党委機関誌『解放日報』の編集委員となった。1965年に呉ヨの『海瑞の免官』を批判して文革の口火を切った。翌年には上海市革命委副主任。四人組のひとりとして、「実権派」攻撃に奔走した。1976年の毛沢東死後に逮捕され、翌年に党籍剥奪処分とされた。1981年、懲役二十年の判決を受けた。1996年、刑期を終えて釈放され、上海市青浦に隠棲した。
李雪峰(1907〜2003)
  山西省永済の人。1926年共産党入党。1935年から劉少奇のもとで党中央北方局に属す。1963年党中央華北局第一書記。1966年北京党委員会書記。紅衛兵の組織運営に当たった。林彪事件の後、失脚、党籍剥奪。1983年政治協商会議常務委員として復活した。
ケ力群(1915〜)
  湖南省桂東の人。1936年、北京の学生運動リーダーから共産党に入党した。新中国建国後は党中央新疆分局常委・秘書長・宣伝部長のほか、『紅旗』副編集長をつとめた。文革のとき、陳伯達に批判されて失脚したが、1974年に復活。1978年から中国社会科学院副院長。1990年には党中央党史工作領導小組副組長となった。『商品経済の規律と計画』。
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