[伝説]
盤古(?〜?)
盤古氏、混沌氏。天地創造神とされる。はじめ混沌から天地が分かれたとき、その中間にあって一日一丈背を伸ばし、一万八千年かけて九万里に及んだ。天地の間に立って天を支えていたが、死んだときその死体から万物が生まれたという。南方(古代苗族)起源の開闢説話の神らしい。
燧人氏(?〜?)
燧皇。上古の世に人々は果実や鳥獣や魚介類などを生で食していたが、胃をこわし疾病が多かった。かれが火を起こして食物をあたためて臭いを避け毒を取り去ることを民に教えたので、推されて王となった。三皇のひとりと数えられることもある。
有巣氏(?〜?)
大巣氏。上古の世に人々は少なく禽獣は多く、野に穴居して禽獣虫蛇の害に遭っていた。かれが巣居を発明して、木を組んで巣とすることを教えた。このため害を避けられたので、推されて王となった。
伏羲(?〜?)
姓は風。包犠。太コウ※1。人頭蛇身の神。雷沢に生まれ、東夷の首長となった。燧人氏に代わって王となり、陳に都を置き、在位百十一年で崩じた。八卦をまとめ、料理や婚姻制度などを人間に教えたという。三皇のひとり。太コウの神話と南方(古代苗族)起源の兄妹神説話が混淆して成立したらしい。
女媧(?〜?)
姓は風。女希、女皇。人頭蛇身の神。伏羲の妹にして妻でもある。大地に大洪水が起こり伏羲とともに生き残った。泥をこねて人間を造ったという。共工と祝融が帝王の座を争ったことがあったが、帝王となることができなかった共工が、怒り心頭に発して天を支える柱の山(不周山)を崩したため天変地異が起こった。女媧は五色の石をこねて天の亀裂を繕い、巨大な亀の足で天の四隅を支えたという。三皇のひとりと数えられることもある。伏羲とともに古代苗族の兄妹神説話・洪水説話から成立したらしい。
祝融(?〜?)
祝庸、祝誦とも。帝として立ち、鄭に住んだ。三皇のひとりと数えられることもある。また黄帝のときの六相のうちで南方をつかさどる。ほか帝嚳のときの火官を指し、重黎が祝融となったという。
神農(?〜?)
炎帝。姓は姜。列山氏。小典の子。母は女登。人身牛首の姿で生まれた。太陽神・農業神・医学(漢方)神であり、また降雨をつかさどった。薬草の毒を呑んで死んだ。三皇のひとり。西方(古代羌族)起源の神らしい。
蚩尤(?〜?)
蚩蚘、蚩郵とも。姓は姜。阪泉氏。炎帝の後裔で、諸侯の中でもっとも凶暴であった。黄帝と涿鹿で決戦して敗れて殺された。かれの遺体は二カ所に分けて葬られ、ひとつは山東省陽谷寿張にあって蚩尤冢といい、ひとつは山東省巨野にあって肩髀冢という。
黄帝(?〜?)
姓は公孫、名は軒轅。有熊氏。帝鴻氏ともいう。小典の子。母は附宝。神農とは異父兄弟とも八世の孫ともいう。寿丘に生まれ、姫水に成長した。有熊国君となる。ときに神農氏が衰え、諸侯が互いに攻め合ったので、軒轅は入朝しない諸侯を討伐した。そこで諸侯はみな軒轅を頼りにするようになった。炎帝の軍隊と阪泉の野で決戦して勝利した。また、蚩尤が反乱を起こして苦戦したが、西王母の使者九天玄女のさずけた霊符により、蚩尤を涿鹿の野に撃ち破り勝利をおさめた。神農に代わって天子となった。東は丸山・泰山から、西は空桐の雞頭山にのぼり、北は葷粥を逐い、南は熊山・湘山にいたった。風后・力牧(力墨)・常先・大鴻らを登用して天下を治めた。『史記』によると五帝の筆頭。三皇のひとりに挙げられることもある。二十五人の男子を得て、中華民族の祖とされた。また暦・衣服・家・舟・弓矢などを発明したとされる。
風后(?〜?)
黄帝の師といい、また黄帝の三公ともいう。海隅で黄帝に仕え、相に上った。六相のうちで西方をつかさどる。著に『風后兵法』があったとされる。
力牧(?〜?)
力墨、力黒ともいう。大沢で黄帝に仕え、将軍となった。黄帝のもとで相に上った。著に『力牧兵法』があったとされる。
鬼臾区(?〜?)
号は大鴻。黄帝に仕え、大臣となった。
蒼頡(?〜?)
黄帝に史として仕えた。文字を作ったという。
少昊(?〜?)
名は摯、字は青陽。金天氏。黄帝の長男。曲阜に都を置いた。在位百年にして崩じた。五帝のひとりと数えられることもある。
顓頊(?〜?)
高陽氏。昌意の子。母は昌僕。黄帝の孫にあたる。黄帝が没すると、帝位についた。鬼神をうやまい、万人を教化し、四方遠国にいたるまで彼の徳治に服したという。五帝のひとり。
帝嚳(?〜?)
高辛氏。蟜極の子。黄帝の曾孫にあたる。顓頊の跡をついで天子となった。明晰仁慈で、人民に恩徳を施し、天下は彼のもとに服した。音楽を愛したという。五帝のひとり。かれに才子八人があり、八元と称された。伯奮・仲堪・叔献・季仲・伯虎・仲熊・叔豹・季貍である。
帝堯(?〜?)
名は放勲。陶唐氏。帝嚳の子。母は陳鋒氏。兄の帝摯の跡を継いで天子となった。後代に理想の治世とされた聖天子とされる。その生活は質素で、宮殿とは名ばかりの茅葺き小屋に住んだ。四岳を任じて補佐させ、羲氏と和氏に命じて暦を正させた。かれの統治のもと、九族は睦み合い、百官は公正となり、万邦は帰服し、不和争乱がなくなったという。晩年には舜を見出して摂政とした。五帝のひとり。その説話の多くは西方(古代羌族)起源と思われる。
羿(?〜?)
弓の名人で狩猟にすぐれた。帝堯のころ、十個の太陽が同時に昇り、干害に苦しめられたとき、九個の太陽を射落としたという。天帝の怒りを買い、神籍を剥奪された。不死の薬を求めて崑崙に赴き、西王母に薬を与えられるが、妻の嫦娥に奪われた。東夷系民族起源の神話人物らしい。のちの夏の代になって、太康を王都より逐った人物としても名が見える。
嫦娥(?〜?)
羿の妻。不死の薬を夫より奪って月に逃げたが、蝦蟇に姿を変えられてしまった。このことから嫦娥は月の別名とされた。
許由(?〜?)
許繇とも。有徳の人で、沛沢に隠れ住んだ。堯帝が天子の位を譲ろうとしたが、それを拒絶し、潁水の北、箕山のふもとに逃れたという。また堯が九州の長として召そうとしたところ、聞き入れず、潁水の浜で耳を洗ったという。一説に巣父と同一人物という。
帝舜(?〜?)
姓は姚、名は重華。字は都君。有虞氏。冀州の人。瞽叟の子。母は握登。姚丘に生まれた。目の中にふたつの瞳をもったといわれる。生母を早く亡くし、継母や弟の悪行に悩まされた。歴山で耕作し、雷沢で漁した。四獄に見出されて推挙され、堯帝のふたりの娘(娥皇・女英)をめとった。親族にたびたび殺されかけたが、妻の機転で危急を救われた。のちに堯帝に仕えて摂政となった。天文を正し、祭祀を整え、諸侯を監察し、刑罰の規定を定めた。共工を北の幽陵に流し、讙兜を南の嵩山に追放した。叛乱を起こした三苗を西の三危に逐い、治水に失敗した鯀を東の羽山に追いやった。堯帝の死後、堯の子の丹朱に譲ったが、天下の人心はおのずから舜に帰し、ついに天子となった。天下を九州に分けて統治した。南方に巡狩して蒼梧に崩じた。五帝のひとり。舜帝の死後、ふたりの妻は湘水に身を投げたという。
皋陶(?〜?)
姓は偃、字は庭堅。曲阜に生まれた。堯に見出されて仕えた。舜の代に、士となって公平に裁判をおこなったという。禹の代となり間もなく没した。のちに子孫は英、六の二国の祖となったという。西方(古代羌族)起源の説話人物らしい。
彭祖(?〜?)
名は鏗。陸終氏。顓頊の後裔。堯に見出されて仕えた。殷のとき、大彭に封ぜられた。寿命が長かったことで知られる。
后稷(?〜?)
名は棄。周の遠祖とされる。母の姜源は巨人の足音に感応してかれを産んだという。農耕を好み、五穀を植え育てて収穫することを民に教えた。堯・舜・禹の三代に仕えた。舜のとき、農師となった。功により邰に封ぜられ、后稷と号した。子孫は代々稷に住み、周の文王・武王にいたって天子となった。
[註]
1.コウ=
↓次の時代=夏
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