『廿二史箚記』より
清朝考証学の泰斗である趙翼の著書『廿二史箚記』(にじゅうにしさっき)の記述のごく一部をほとんどそのまま拝借したものです。ただし直訳にはなっていません。
『廿二史箚記』は、『史記』から『明史』にいたる正史をめぐる史論です。「箚記」は本を読んだ感想という意味なので、二十二の史書を読んだ感想という題ですね。趙翼の書いたものには何が面白いんだか分からないようなものもありますが、たんたんと列挙してあるのは、それでも凄みを感じるものです。僕は個人的に中国史トリビア集と呼んでますが。
『廿二史箚記』の電子テキストはここにあります。
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10.五代にわたって韓に宰相たること
『史記』は、張良が五代にわたって韓に宰相をつとめた家柄だったので、韓のために始皇帝に仇を報じようとしたといっている。しかし、五代というのは韓王を指して言っているのであり、韓の王五代にわたって張氏が宰相であったと言っているので、張氏の五代がみな韓で宰相であったわけではない。張良の祖父の張開地は韓の昭侯・宣恵王・襄哀王のもとで宰相であり、張良の父の張平は釐王・悼恵王のもとで宰相であった。これを五代としているのだ。
64.光武帝は多くの奴婢を自由にした
後漢の光武帝(劉秀)のとき、彭寵がそむき、その蒼頭(奴隷)の子密が彭寵を殺して降伏すると、光武帝はかれを不義侯に封じた。そのほかにも奴婢を解放した話は、いくつか史書に見られる。
建武二年(26)五月、光武帝は詔を下した。「民のうちで、自分の妻を他人に嫁がせたり、子どもが売られて父母のもとに帰りたがっているものがある。その場合、自由にすることを許す。あえて拘束しようとする者は法律にしたがって罪を問うものとする」。
六年(30)十一月、詔を下した。「王莽のときの下級役人のうちで、犯罪のかどで財産没収のうえ奴婢の身分に落とされたが、旧来の法律に照らしてそのような処分に当たらない者は、みな赦免して庶民とせよ」。
七年(31)五月、役人に詔を下した。「飢乱に遭遇し、青州(山東)・徐州(江蘇)の賊にかどわかされて奴婢やめかけとなった者がいる。立ち去るかそのまま留まるかは、本人の自由に任せよ。あえて拘束して帰さない者には、人身売買の法を適用せよ」。
十一年(35)二月、詔を下した。「天地の本性は、人間を貴重なものとした。もし奴婢を殺したことがあっても、そのために罪を減じてはならない」。
また八月、詔を下した。「もし奴婢の肌を火あぶりにしたものがいれば、法律のとおりに罪に問い、火あぶりにされた者を解放して庶民とせよ」。
十二年(36)三月、詔を下した。「隴(陝西)・蜀(四川)の民のうちでかどわかされて奴婢となって自ら訴える者、および刑獄担当の官から判決についての上申がまだない罪人は、いっさいを赦免して庶民とせよ」。
十三年(37)十二月、詔を下した。「益州(四川)の民のうちで、公孫述のとき以来かどわかされて奴婢となった者は、みないっさい解放して庶民とせよ。あるいは身を寄せて他人のめかけとなり、立ち去ろうと望む者は自由にすることを許す。あえて拘束する者は青州・徐州で人をかどわかした場合に準じて法を適用する」。
十四年(38)十二月、詔を下した。「益州(四川)・涼州(甘肅)の奴婢のうちで、隗囂・公孫述のとき以来にその土地の官に訴えた者は、いっさいを赦免して庶民とし、売られた者は売価を返してはならない」。
これらはみな『後漢書』光武帝紀に見える。『漢書』王莽伝によると、貧富の差が起こり、奴婢の市が置かれ、牛馬と同様に取り引きされ、奸悪な者たちが利益をえていた。人の妻子をかどわかして売るにいたっては、天の心にそむき人倫にもとる…と書かれている。
王莽のとき、奴婢の受けた害ははなはだしいものがあった。その後の兵乱のとき、良民がまた多くかどわかされて奴婢となった。光武帝はかつて民間にあってこれらを見ていたので、そのためかれらを保護したのである。
73.四世三公
前漢の韋氏(韋賢・韋玄成)や平氏(平当・平晏)が二代にわたって宰相となったのはささいなことだ。というのも、後漢には歴代みな公となったものがあるからだ。
楊震は官は太尉となった。その子の楊秉は劉矩に代わって太尉となった。楊秉の子の楊賜は劉郃に代わって司徒となり、また張温に代わって司空となった。楊賜の子の楊彪は董卓に代わって司空となり、黄琬に代わって司徒となり、淳于嘉に代わって司空となり、朱儁に代わって太尉・録尚書事となった。楊震から楊彪にいたるまで四代みな三公となっている。
袁安は官は司空となり、また司徒となった。その子の袁敞と袁京はともに司空となった。袁京の子の袁湯は司空となり、太尉を経て、安国亭侯に封ぜられた。袁湯の子の袁逢は司空となった。袁逢の弟の袁隗は袁逢に先だって三公となり、官は太傅に上った。このため臧洪が袁氏は四世五公といっている。
古来から臣下の一族の栄華がこの二家ほどのものはいまだなかった。范曄が前漢の韋氏や平氏のことを大したことはないといっているが、本当にささいなものだというべきだ。
96.関張の勇
漢より後に勇者を称するには、必ず関羽・張飛を引き合いに出す。
晋の劉遐は賊を討つたびに堅陣を陥し、鋭鋒をくじいたので、関羽・張飛にたとえられた。
苻堅が閻負・梁殊を張玄靚のもとに使者として派遣したとき、本国の誇る将帥として王飛・ケ羌を挙げて、「関・張の流、万人の敵」と称した。
禿髪ジョク檀が人材の推薦を宋敞に求めたとき、宋敞は「梁ッ・趙昌は、武が飛・羽に匹敵する」といった。
李庠は膂力にすぐれていたので、趙廞がかれを評して「李玄序はいっときの関・張である」といった。
南朝宋の薛彤・高進之はともに勇気と力をそなえていたので、ときの人は関羽・張飛にたとえた。
魯爽がそむいたとき、沈慶之は薛安都にこれを攻めさせ、薛安都は魯爽を見つけるやいなや馬を躍らせて呼ばわり、あっという間に刺し殺したので、ときの人は「関羽が顔良を斬ったのもこれほどではあるまい」といった。
南朝斉の垣歴生は拳勇突出していたので、ときの人は関羽・張飛にたとえた。
北魏の楊大眼について、世間の人々は関・張もかれを超えることはないと評していた。
崔延伯が莫折念生を討って勝利すると、蕭宝寅は「崔公はいにしえの関・張である」といった。
南朝陳の呉明徹が北斉を討ったとき、尉破胡ら十万の兵にはばまれた。呉明徹は「もしあの胡人を倒せば、敵軍の士気を奪えるだろう。君は関・張の勇名をもっている。顔良を斬ってこい!」そこで蕭摩訶が出陣すると、尉破胡を打ち殺した。
このように各史書に見える。二公の声望は数百年たっても人を驚かし、恐れさせているのである。
107.『晋書』の怪異を記すところ
異聞を史伝に取り入れるところ、『晋書』『南史』『北史』に多い。なかでも『晋書』戴記にことのほか多い。
劉聡のとき、流星が平陽に落ちたが、見たところ肉のようであり、南北三十歩、東西二十七歩、臭いは数里先までただよい、肉のそばでは泣き声が聞こえた。劉聡の皇后劉氏が一匹の蛇と一頭の虎を産み、蛇と虎は人を傷つけながら逃亡した。追いかけると蛇と虎は落ちた肉のそばまで行き、泣き声がそこで止まった。
劉聡の子の劉約が死んだが、一本の指だけ暖かかったので、かりもがり(遺体の安置儀式)を行わなかった。そうしたところ劉約は蘇生して、臨死体験を語った。劉約が言うには、亡くなった祖父の劉淵に不周山で会い、諸王将相たちもおり、蒙珠離国と号していたという。劉淵は「東北に遮須夷国があるが、国主がいない。おまえの父を国主にしようと待っている。三年したら来るだろう。おまえは帰りなさい」といった。蒙珠離国を出て、途中で猗尼渠余国を通った。宮殿に召され、一枚の革袋を渡され、国主に「わたしから漢皇帝への贈り物だ。あとで劉郎が来たら、末娘を妻としてめあわせよう」といわれた。劉約が蘇生すると、机の上には革袋があり、中には白玉と「猗尼渠余国天王が遮須夷国天王に贈り物をいたします。ときが来たらお会いしましょう」と書かれたものが入っていた。劉聡はこれを聞いて、「こんなことであるなら、わたしは死を恐れないぞ」といった。劉聡は三年後にやはり死んだ。
石虎のとき、太武殿に描かれた古賢像が忽然として胡人の姿に変わった。十日あまりして、頭が縮んで肩の間に入った。
これらの怪異の記述は、みな劉氏と石氏の乱から出ている。劉氏と石氏の凶暴は常にあらざるものであったので、常にあらざる変異があって応じたのも、理の自然であろうか。
ほかにも、干宝の父が死んだとき、干宝の母は嫉妬深く、父の寵愛した端女を墓の中に入れてしまった。十余年して干宝の母が亡くなり、合葬するために墓を開くと、かの端女が棺桶に伏して生きていた。幾日かして口が利けるようになり、彼女が言うには、干宝の父が飲食のものを与えてくれたので、地中でも無事だったのだという。この話はことのほか信じることができない。しかしこのことが干宝が『捜神記』を作る動機となったというのである。
108.東晋は幼主が多い
晋が南渡してのち、ただ元帝(司馬睿)が年四十二で即位し、簡文帝(司馬c)が年五十一で即位したが、そのほかは即位したときに幼弱だったものが多い。
明帝(司馬紹)は二十四歳、成帝(司馬衍)は五歳、康帝(司馬岳)は二十一歳、穆帝(司馬耼)は二歳、哀帝(司馬丕)は二十三歳(正しくは二十一歳)、廃帝(司馬奕)は二十一歳(正しくは二十四歳)、孝武帝(司馬曜)は十二歳、安帝(司馬徳宗)は二十二歳(正しくは十五歳)で即位した。恭帝(司馬徳文)が年三十二で即位するにいたって、国はついに劉宋に帰してしまった。
国運が隆盛に向かっているときには、君主の在位期間が長く、子を生むのも早く、つぎに帝位を継ぐものが多く壮年ということになり、いわゆる国に成長した君主があるということで、社稷が幸福なのである。王朝の衰えるときには、君主の在位期間が短く、跡継ぎの子も多くは幼いということで、もとより人力でどうにかできるところではないということである。
しかし東晋が(幼主が多いのに)なお八、九十年のあいだ国を受け継ぐことができたのは、つまるところ補弼する大臣の力によるのである。
明帝、成帝のときには、王導・庾亮・郗鑒らがいた。康帝・穆帝のときには、褚裒・庾冰・蔡謨・王彪之らがいた。孝武帝のときには、謝安・謝玄・桓沖らがいた。
君主が弱小でも、臣下がなお公正で忠実なら、国の命脈を伸ばすことができる。ひとたび桓温が出て宗社を幾たびか移し、会稽王司馬道子が見識もないのに国政を担当し、司馬元顕が愚かしく政治を乱すにおよんで、みんないっしょに溺れてしまったのだ。国家の貴いところは、賢人を任用する策にあるのである。
199.魏斉の諸帝はみな早く子を生んだ
北魏の道武帝は十五歳で明元帝を生んだ。景穆太子は十三歳で文成帝を生んだ。文成帝は十五歳で献文帝を生んだ。献文帝は十三歳では孝文帝を生んだ。
北斉後主は十四歳で高恒を生んだ。高緯の弟の高儼が誅殺されたとき、年は十四で、すでに腹の中の子が四人いた。
高澄が年が十二のときに東魏の孝静帝の妹の馮翊長公主をめとったことを考えると、北魏と北斉の間は、皇子はみな早年のうちに結婚するので、子をなすのもまた早年である。
201.元魏のときの人は神将の名を名乗る者が多い
北朝のときの人は、神将の名を名乗る者が多い。北魏の北地王の世子の名は鍾葵といった。元叉の本名は夜叉といった。その弟の元羅の本名は羅刹といった。孝文帝のときの宦官に高菩薩という人がいた。爾朱栄の子にひとり叉羅というのがおり、ひとり文殊というのがいた。梁の蕭淵藻は幼名を迦葉といった。隋のとき、漢王楊諒がそむいたとき、その将に喬鍾葵というのがいた。隋末の群雄に宋金剛というのがいた。唐の武后のとき、嶺南討撃使がふたりの去勢した子どもを献上した。ひとりは金剛で、ひとりは力士、つまりは高力士である。
244.唐にはふたつの上元の年号がある
唐の高宗のときに「上元」の年号があり、粛宗のときに「上元」の紀年がある。せいぜい六、七十年の差しかなく、朝臣が記憶してなかったはずがない。子孫が祖宗の号を再び用いるとは、何のいわれがあったものだろうか?元の順帝が元の世祖の創業の治世を慕って、その「至元」の紀年を用いたときは、そのために当時に「重紀至元」の称があったのである。「衰乱の朝は典故を知らない」というのは、もとより論ずることもないことだろうか。
309.五代の人は多く「彦」を名にもちいる
彦はもとは美名であり、むかしの人は多くこれを名としたが、五代のときほど多かったことはない。
唐末に宰相の徐彦若がおり、左拾遺の徐彦枢、供奉官の史彦瓊、宦官の支彦勲、魏博の楽彦禎、東川の顧彦朗および弟の顧彦暉、顧彦瑤がいた。
これ多いのは後梁で、鉄槍の王彦章は、人みな知るところである。しかし同時に兵を率いた大将に謝彦章がいた。このほかに滄州の盧廷彦、同州の寇彦卿、鄜州の李彦容、静勝軍の李彦韜(本名は温昭図)、宣義軍の霍彦威がいた。また滄州の盧彦威、左龍武統軍の李彦威(すなわち朱友恭)、都指揮使の楊彦洪、蔡州刺史の王彦温、大将の李彦柔、左天武使の劉彦圭、左僕射押牙の王彦洪、楊劉の守将の安彦之、幽州騎将の高彦章、蔡州軍校の張彦珂、雷満の子の雷彦恭、雷彦雄、雷彦威がいた。
後唐から後晋のあいだには、中書の焦彦賓、供奉官の劉彦瑤、宦官の馬彦珪、伶官の史彦瓊、右監門衛上将軍の王彦璘、兵馬都監の夏彦朗、皇城使の李彦紳、宮苑使の史彦容、遊奕将の李彦暉、龍驤指揮使の姚彦温、馬歩軍使の馬彦超、枢密の李虔徽の客の辺彦温、歩軍指揮使の薬彦稠、戸部尚書の韓彦暉(旧史は暉とし、新史はツとする)、河中の安彦威、義成の李彦舜、安国の楊彦c、彰義の張彦沢、昭順の姚彦章、鎮州副使の李彦珂、興元副使の符彦琳、鄚州刺史の白彦球、天平軍副使の李彦贇、河陽行軍司馬の李彦c、霊州の将の王彦忠、東川の董璋の将の李彦サ、安重栄の将の趙彦之、杜重威の子の杜彦超がいた。
後晋から後漢のあいだには、泰寧の慕容彦超、保大軍の張彦超、徐州の王彦超、同州の張彦贇、知安陽州の苻彦倫、丹州指揮使の高彦c、如京使の甄彦g、監軍の楊彦朗、何彦超、先鋒指揮使の史彦超、歩軍指揮使の宋彦筠、河東行軍司馬の張彦威、沂州刺史の房彦儒、汾州刺史の武彦弘、慶州刺史の郭彦欽、登州刺史の郭彦威、鎮州副使の李彦g、元従都押牙の蘇彦存、後宮都押牙の李彦弼、虢州刺史の常彦卿、徐州守禦使の康彦環、西京判官の時彦澄、保寧軍都頭の劉彦章、安州軍校の武彦和、彰義の張万進の子の張彦球、同州指揮使の成殷の子の成彦璋がいた。
後漢から後周のあいだには、符彦図、符彦超、符彦卿、符彦饒、符彦能がおり、みな符存審の子である。また尚輦奉御の金彦英(もとは高麗人)、監軍の李彦従、内客省使の李彦頵、左衛上将軍の扈彦珂、金吾衛上将軍の張彦成、水部員外郎の韓彦卿、鎮州副使の趙彦鐸がいた。これらはみな新旧五代史にみられる。
このほかに劉守光に将の史彦璋がいた。楊行密に寿州の将の王彦威、軍使の彭彦章がいた。南唐に寿州の大将の劉彦貞、楚州の将の張彦卿、袁州刺史の袁彦章がいた。徐知訓に行酒吏の刁彦能がいた。南漢に大将の伍彦儔、指揮使の曁彦贇、宦者の許彦貞がいた。北漢に遼州刺史の傅廷彦、石州刺史の安彦進がいた。蜀に先鋒使の尚彦暉、招討使の高彦儔、副使の呂彦珂、使介の趙彦韜、客将の王彦球、袁彦超がいた。閩に学士の廖彦若がいた。楚の馬殷のもとに左相の姚彦章、大将の姚彦暉、劉彦韜がおり、朗州に帥の雷彦恭、彦雄がおり、虔州に将の李彦図がいた。さらに遼に鄚州刺史の王彦徽、寰州刺史の趙彦辛、武州刺史の王彦符、牙校の許彦欽がいた。党項にまた拓跋彦昭がおり、威州に拓跋彦昭がいた。回鶻に首領の楊彦詢がいた。南寧蛮に首長の莫彦珠がいた。これまた新旧の五代史に見られる。
宋初にいたっても続いていた。陳橋の兵変のとき、軍校の羅彦、王彦昇というのがいた。のちに龍捷指揮使の趙彦徽、武信軍節度使の崔彦進、歩軍指揮使の靳彦朗、後晋陽巡検の穆彦璋がいた。北漢を征討したとき、防禦使の張彦進がいた。南漢を討ったとき、部将の冉彦袞がいた。蜀を討ったとき、部将の高彦容、折彦贇がいた。また杜太后の兄の子に杜彦超、杜彦珪、杜彦遵、杜彦鈞、杜彦彬がいた。太宗のときに、供奉官の陳彦詢、崇化副使の閻彦進がいた。并州を討ったときに、尚食使の石彦贇がいた。契丹を討ったときに、沙州観察使の杜彦圭がいた。これまた宋史に見られる。
五代から宋にいたるまで集計すると、名を彦章という者が七人、彦超という者が十一人、彦威という者が七人、彦卿という者が七人、彦進という者が四人、彦温、彦韜という者がおのおの三人、競って模倣しあい、それぞれ彦を名とするのが、一時の流行となった。
293.三つ子が史書に書かれたのは
一度に三人、四人の男の子が産まれた話が史書に書かれたのは『旧唐書』にはじまる。高宗紀に、嘉州辛道譲の妻が一度に四男を産んだとあり、高苑県の呉文威の妻の魏氏が一度に四男を産んだとある。哀帝紀に、穎州汝陰県の彭文の妻が一度に三男を産んだとある。欧陽脩『新五代史』はこれをまねて、本紀に載せている。同光二年に軍将趙暉の妻が一度に三男を産んだというようなのが、これである。
これらがめでたいしるしとして記されたのか、珍しいというだけで記されたのか。後世の人はこれを善いしるしとみなしたようだが、乱世の記録に書かれるのは不自然である。唐の高宗の後には武氏の禍があり、哀帝はまさに国を失わんとするときである。
『宋史』では、哲宗紹聖四年に宣州の民の妻が一度に四男を産んだとあり、元符二年に河中猗氏県の民の妻が一度に四男を産んだとある。徽宗重和元年に黄巌の民の妻が一度に四男を産んだとあり、まもなく金の侵攻の禍があった。一度に三人、四人の男の子が産まれるのは、変異であり、吉祥ではないのである。
349.三たび入相すること
『宋史』呂蒙正伝の賛に「国朝(宋朝)で三たび入相したのは、ただ趙普と呂蒙正だけである」という。しかし呂蒙正の後に、また王欽若・張士遜・呂夷簡・文彦博・陳康伯がいて、みな三たび入相しており、蔡京は四たび入相するにいたっている。『宋史』のいうところは、深く考察されたものではないのだ。
趙普:(乾徳三年に門下侍郎平章事となり、のちに河陽三城節度使として出された。太平興国初年に再び入相し、司徒兼侍郎に任ぜられた。八年、武勝軍節度使として出された。雍熙三年に再び入相し、太保兼侍中に任ぜられた。)
呂蒙正:(太平興国年間に中書侍郎兼戸部尚書平章事に任ぜられ、淳化初年に罷免されて吏部尚書となった。四年にまた本官のまま入相し、至道年間に判河南府として出された。真宗の咸平四年にまた本官のまま同平章事となった。)
王欽若:(大中祥符年間に検校太傅同中書門下平章事となり、馬知節と争論したため罷免された。また左僕射兼中書侍郎同平章事に任ぜられたが、まもなく判杭州として出された。仁宗の初年にまた司空・門下侍郎・同平章事に任ぜられた。)
張士遜:(仁宗の初年に礼部尚書から同中書門下平章事となったが、のちに知江寧として出された。明道初年に再び入相し、中書侍郎に進んだが、まもなく山南東道節度使として出された。宝元初年にまた門下侍郎として入相し、郢国公に封ぜられた。)
呂夷簡:(尚書から中書同平章事に任ぜられ、のちに判陳州として出された。いくばくもせずに相にかえりざき、申国公に封ぜられたが、再び判許州として出された。いくばくもせず、また右僕射として入相し、位を司空に進めた。)
文彦博:(貝州を平定して帰還すると、同中書門下平章事に任ぜられたが、唐介に弾劾されて罷免され、知許州として出された。至和二年にまた吏部尚書として入相し、長くつとめたが、判河南として出され、太師として致仕した。元祐初年に平章軍国重事として召され、六日に一度の間隔で朝廷に出た。)
陳康伯:(紹興三十一年に尚書右僕射に任ぜられたが、判信州として出された。隆興初年にまた尚書左僕射・同中書平章事に任ぜられたが、知建康府として出された。淳熙九年に右丞相に任ぜられた。ときの孝宗が僕射は名が正しくないとして、丞相と改めたものである。)
414.聖諱を避ける
『金史』によると、明昌年間に周公(旦)、孔子(丘)の名を避けるよう詔が下った。また進士の名に孔子の諱を犯す者は避けるよう、役人に詔を下した。これが近代の聖諱を避けるはじまりである。
456.弟を皇太子とし、叔母を太皇太后とする
元の武宗(カイシャン)は弟の仁宗(アユルバルワダ)を立てて皇太子とし、明宗(コシラ)は弟の文宗(トク・テムル)を立てて皇太子とした。思うに皇太子とは王朝の跡継ぎの名号であって、一族の序列では論じられないのである。しかし弟を子と称するとは、名の正しくないこと、これほどひどいことはない。
順帝(トゴン・テムル)は叔母(文宗の后のブッダシリ)に立てられた恩があったので、尊び奉ろうと考えて、まず尊んで皇太后とし、次いでまた尊んで太皇太后とした。叔母を祖母の称で奉ずるとは、もっとも可笑しいことである。当時にも許有壬が強く諫めたが、聞き入れられなかった。また明宗が殺された事件が追究されると、鉾先は太后におよんで、東安州にうつされて死んだ。はじめに彼女を非礼によって尊び、のちに彼女を冤罪に連座させる。衰朝の荒主のやることが無茶苦茶なのは、もとより責めるまでもないことだろうか。
463.安南王が漢陽にいた
至元二十二年(1285)、(元軍が)安南を征討し、その王の陳日烜は遁走した。陳日烜の弟の陳益稷は、その一族と妻子を引き連れて降伏し、詔により安南国王に封ぜられ、符印を賜り、漢陽に居住した。二十七年(1290)に入朝し、湖広行省平章政事に遙任された。仁宗の初年、陳益稷はまた入朝し、「臣は世祖のときに来帰してから、漢陽の田五百頃を賜り、余生を暮らそうとしてまいりました。いま臣の年は七十に届こうとしており、役人が臣の田を取り上げたため、食いしのいでいく方法がありません」といった。帝はその田を返還するよう命じた。天暦二年(1329)に亡くなり、文宗は忠懿という諡を賜った。
467.牛皮の船
『元史』によると、石抹案只が宋の敘州を攻めたとき、長江を渡る手段がなかったので、軍中の牛皮をあつめ、浮き袋にして皮船を作り、これに乗って、その渡し場を奪った。
また宋兵が万州に駐屯すると、汪世顕が上流から太鼓の革の舟で襲ってこれを破った。
ともに各本伝に見える。
503.揚州に同時に四知府がいた
靖難の軍が揚州にいたると、江都令の張本が降った。成祖は、知滁州の房吉と知泰州の田慶成が先に帰順していたので、張本とともに揚州知府とした。加えて現任の知府の譚友徳にも府の事務を任せたので、揚州にはいっとき四知府がいることになった。
555.徐鴻儒
天啓二年(1622)、山東の妖賊の徐鴻儒がそむき、つづいて鄆・鉅野・鄒・滕・嶧を落とし、部衆は数万にいたった。巡撫の趙彦は、楊国棟と廖棟を都司に任じ、部下に触れ文を発して民兵を訓練させ、要地を守らせた。家居総兵の楊肇基に起たせて、兵を率いさせ討伐におもむかせた。しかし廖棟と楊国棟は鄒を攻めて潰滅し、遊撃の張榜が戦死した。趙彦が兗州に軍隊視察におもむいたとき、たまたま賊と遭遇したので、楊肇基が急遽迎え撃ち、廖棟と楊国棟に挟み撃ちにさせて、賊を横河で大いにやぶった。賊の精鋭は鄒・滕のあいだの道に集まっていたので、楊肇基は別働隊を賊の鄒城に繰り出した。しかも大軍で賊の紀王城を攻撃して、賊を大いに破り、紀王城を嶧山でたおし、そのまま鄒を囲んだ。楊国棟らはまた前後して鄆・鉅野・嶧・滕の諸県を回復し、そこで長い包囲線を築いて鄒を攻めた。三月、賊は食糧が尽きて、その一党は降伏し、ようやく徐鴻儒を捕らえた。
追記:『廿二史箚記』wikiというのを作ったので、以後はそちらでやろうと思います。(2007.2.4)
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