駄説中国史
中国史に関する書き散らしをいくつか。
コラムページのトップへもどる
ホームへもどる
■黒水城(カラ・ホト)の位置づけ
先日(2003年2月)、NHK特集「シルクロード」(1980〜81年)の再放送をやっていた。
20年以上の時間が経ちながら、内容は良質で今でも決して古びていないと感じた。
中国史に興味を持つものは、ぜひ一度観ておくべきだろう。
さて、放送第4回「幻の黒水城(カラホト)」である。
河西回廊を酒泉からやや北に外れ、エチナ河が居延沢に流れ込むあたり、現在の内蒙古自治区額済納(エチナ)旗の東に哈拉和托(カラホト)古城がある。
西夏の城の遺構である。
放送では、この城が西夏のもとで繁栄をきずき、モンゴルに滅ぼされるまでを美しく描いた。
しかし、この描き方はやや疑問が残る。
放送を素直に見ると、西夏の最後の王がここで滅んだように読める。放送を見て、カラホトが西夏の王都であったと勘違いする人も出たであろう。
だがあくまで西夏の首都は中興府(はじめは興慶府と称す−今の寧夏回族自治区銀川市)である。西夏の最後の王の李睍も中興府で滅んだ。
西夏のカラホトは遺跡としては現在貴重だが、当時の位置づけとしては黒水鎮燕軍司が置かれた地方都市にすぎなかったのだ。
しかもカラホトは西夏で潰えさったわけではない。
元の至元二十三年(1286年)、この地に「亦集乃路」が置かれ、甘肅行省に属した。モンゴル支配のもとでも存続していたのである。
ついでにいえば、エチナ河流域では漢簡(居延漢簡)が出土している。これに全く言及がなかったのも、いささか残念だ。
■なぜか知名度の低い董琬・高明
中国史上の西域事情を語ると、教科書的に必ず登場するのが前漢の張騫・後漢の班超である。
あと西天取経を志した僧たち、東晋の法顕・唐の玄奘・義浄といった人々がまた登場する。
しかし、北魏の董琬・高明が出てくることはほとんどないといっていい。
5世紀はじめ、ふたりは北魏の太武帝の命を受けて西域に向かい、鄯善はじめ九カ国を招撫し、烏孫国を経て、董琬は破洛那(フェルガナ)に、高明は者舌(カザフ)にいたった。
北魏はもはや漢代のような西域経営をおこなう力はなかったが、この時代の東西交渉に果たしたふたりの功績はやはり大きい。
しかし、一般にはふたりの名は無名である。
なぜかというと、西域行の苦労話が全く伝わっておらず、ドラマ性に欠けるためではないかと思われる。
著書の一冊でも残していれば、かなり違ったのだろうか。
■王玄策は王世充の息子?
「王玄策」という人物がいる。
かれは唐の太宗・高宗に仕えた。
貞観十七年(643)、中天竺摩掲陀国(ヴァルダナ朝)国王尸羅逸多(戒日王ハルシャ・ヴァルダナ)の使者の帰国に同行してインドに向かい、西域百余カ国を歴訪した。
また貞観二十一年(647)には、こんどは正使としてインドに赴いたが、すでに尸羅逸多は没しており、宰相の阿羅那順が自立してヴァルダナ朝の専権を握っていた。王玄策ら使節の入国は兵をもってはばまれたため、吐蕃(チベット)の西辺に逃れた。王玄策は吐蕃で千二百の兵を得、また泥婆羅国(ネパール)に七千騎を借りて摩掲陀国を攻め、阿羅那順を捕らえ長安に送った。
顕慶二年(657)には、三度目の使節となり、罽賓(アフガニスタン)にまでいたった。
著書の『中天竺国行記』は失われ、『法苑珠林』の中に一部の遺文が残されているという。
この人の伝記はよく分かっていない。正史に伝が立っていないので、生没年も詳しい経歴も不詳である。
ここで注目したいのは「王世充」という人物である。
隋末の群雄のひとりで、東都洛陽に拠り、鄭帝を称した。
この人の親族十九人が王に封ぜられたらしいが、その名前が残されているのは一部である。
兄に秦王「王世衡」・楚王「王世偉」・斉王「王世ツ」、(従?)弟に徐州行台「王世弁」。
子に太子「王玄応」・漢王「王玄恕」。
なにか気づかないだろうか?
王世充の兄弟の輩行字は「世」である。
王世充の子の輩行字は「玄」だ。
ここで僕はハタと気づいた。
王玄策は王世充の息子ではなかろうか。年代的にも合う。
…以上は今のところ憶測、というより妄想にすぎない。根拠薄弱にすぎる。
ちなみに王世充の兄の子の名は、「王君度」「王道詢」「王琬」。「玄」はつかない。これはまずいかな。
『大唐西域求法高僧伝』という書に、王玄策の甥の智弘律師について「洛陽の人」と書かれている。このため、王玄策も洛陽が本籍とみられていることを附記しておく。
コラムページのトップへもどる
ホームへもどる